斎藤公子 「えがく」
ヒトが人間になる 【斎藤公子】
えがく
自分の頭の中に描かれている絵を、脳が自分の指先に指令する。
手がその通りに描くのを凝視する目。
頭と手指の先と目が一つになり、ほかのことはいっさい眼中にない。
手の動きに集中している世界。
それは描画にしろ、彫刻にしろ、分を書くときにしろ、織りものをおっているときにしろ、スポーツに熱中しているときにしろ、医師が手術をしている時にしろ、それに没頭している姿は、他の人が侵すことのできないきびしさと美しさをもつ。
さくら・さくらんぼの、”6歳”をすぎた子どもたちの、筆さきのさばきはもう幼児の手ではない。
ルソーが「エミール」のなかでいった「力でさきに大人にしなさい。すると、のちに理性が発達する」ということばは、この子どもたちのためにあるようだ。
広い部屋を雑巾でふく、数ある玄関をはききよめる、動物小屋をきれいにしてえさをはこぶ、冬のためのたき木を用意する、畑仕事をする・・・。
体をはげしく使ってする数かずの仕事に熟練した今、卒園前の冬のひと時のこの子どもたちは明けても暮れても静かに一枚の紙にむかう。
たんねんに一つ一つの雪片をえがき、それを細い絵筆で雪と空をぬりわけていく。
1時間、2時間、時が経つのも忘れているようである。
このねばり、ていねいな仕事ぶりは工人をおもわせる。
彼らに1つのあやまりがないのも、数千年の歴史をもつ手工芸の世界に生きる人たちのようである。
小さなほこり一つすらきらって風の入らない部屋に閉じこもり、何回も何回も漆を塗り、一筆、一筆、蒔絵を書いていく公人の姿を見る思いがする。
一人の名工の仕事は見る人をもその世界にひきこんでいく。
6歳以前の子どもたちは、この子らとは違う。
まことに天衣無縫の芸術家である。
マチスやピカソのようにデフォルメした人物をひょいひょいと手早に描いておしみもない。
原始芸術はこのようであったかもしれない。
どの絵も彼らにとっては意味があり、友だちや保育者に、その意味を楽しげに語る。
また、語ってくれなければ大人にはわからない。
じつに早く同じような絵を何枚も描きつづける。
この年頃は洋の東西を問わず、どの子も同じであることはふしぎである。
ぬたくりから、まるを描くようになるまでに1年を要し、丸に目がつき、口が加わり、その顔から手や足が出て、そして、手や足は胴からでるという事を知るのに2年近くかかる。
世界には地と空がある事に気づいて地平線を描くのにもさらに半年が必要であり、地の下にも生きものが生活していることを表現するのにさらに1年はかかる。
この間、さくら・さくらんぼの子どもたちは、数千枚の絵を描く。
これをむだなことだという大人たちは、あのすばらしいギリシア彫刻を生み出すにいたった人間の歴史を知らない人たちである。
子どもの育つ過程でむだなことはない。
立って歩く過程の中でも、ころぶということはむだではない。
たくさんころんだ子どもは腕も足もつよくなり、上手に歩けるようになって、また仕事もうまくなる。
自分の目や触覚で一つ一つ確かめながら、おどろき、表現し、認識を深めていくなかで、描画が広く、深く、緻密になっていく。
その様子は、子どもの脳の複雑な思考が外に見えてくるようである。
これをむだだというなら、子どもの脳にしわが深くなるのを待ってやれないことになる。
子どものときの病気さえ、からだに免疫を作るのに役立つのである。
子どもには”近道”をさせないほうがよい。
色をぬりわけるのも、からだ全体が発達して、目の機能ができあがる6歳を待つほうがよい。
描きたい衝動が頭にいっぱいたまる――このような状況をつくってやることができるかどうかは、大人の責任である。
描きたいとき、手もとに材料があり、描く自由な時間がある――これも大人がしてやれることである。
毎日、接する物事に対して新鮮な目を向け、そのなかに新しい何かを発見し、それを表現したくなる――これらも大人がどのように配慮するかによって大きな違いが生じる。
こうした幼い時を過ごすことができた子どもは、おのれをしっかりともちつつ、ほかの人を理解し、信頼し、社会生活を自分たちでより良いものにしていく、ねばり強い、あたたかい大人に育っていくであろう。
斎藤公子=文 太郎次郎社
「ヒトが人間になる ~さくら・さくらんぼ保育園の365日~」 より抜粋
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